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雪も満足に降らない内に、この珠津島もすっかり春めいた陽気になった。
寮の玄関を出て並木道へと足を向けながら、征一郎は朝の空気を大きく吸い込む。
まだ登校には早い時間のせいか他の生徒の姿も見かけない。
昨夜の雨に濡れた木々が眩しくて、自然と気分はよくなった。
こうしてこの道を通うのもあと僅か。
本当なら自由登校に入ったこの時期、毎日通う理由もないのだけれど。
進路の決まった征一郎は今でもこうしてふらりと登校している。
「おはよう、征」
振り返れば伊織が無駄にキラキラと光を放って、征一郎の真後ろに立っていた。
気配もなく音もなく、突然現れるこの男にももう慣れた。
「どうした、今日は。早いな」
最近の伊織は気ままに学院に現れては、監督生室に入り浸っているようだった。
代替わりをしたけじめなどどこにも在りはしない。
ただ征一郎もまた監督生室の居心地のよさは認めているので、何も言わなかった。

「そりゃ、今日はね」
「何かあったか」
2月の半ばに行事などあっただろうかと考えを巡らせても、征一郎には浮かんでこない。
ふと目を遣ると、伊織は大げさに肩を竦めて首を振った。
「征に期待なんかしてないよ、俺はそこまで馬鹿じゃない」
「何を言っている」
いつもながら訳の分からない伊織の台詞に眉を顰める。
「征はもっと世の中の事情にも興味を持った方がいい」
「余計なお世話だ」
「まあ、それ以前の問題かも知れないがな」
ふっと笑った伊織の顔に、征一郎はらしくもなく僅かに動揺してしまう。
時折こうして見せる笑顔が以前よりだいぶ柔らかくなっていることに。
伊織自身は気付いているのだろうか。

その笑顔を見たいと思っている自分と。
誰にも見せたくはない思う自分。
両者が混在する心の中をこの頃征一郎は彷徨っている。



「征?」
「なんだ」
「俺に見惚れるのは構わないけど、白ちゃん呼んでるよ」
「ふざけるな」
瞬時にいつもの冷静さを取り戻したように装って、振り向いた。
両手に荷物を抱えた白が並木を小走りで駆けてくる。
まだぬかるんでいる道に転ぶなよ、と心の中で声を掛けた。

「兄さま、伊織先輩、おはようございます」
「おはよう、白ちゃん」
「おはよう、白」
伊織にもにこにこと笑顔を向ける白には間違いなくムっとする。
さりげなく白の隣に立って伊織に背を向けた。
「白も早いな」
「はい。今日は…あ、これは兄さまの分です」
白が片手に持っていたさゝきの紙袋を差し出してくるので、受け取った。
中身はきっと白の好きないつものきんつばだろう。
街に出ればお裾分けだと言って、白は征一郎の分も必ず買って来た。
「白ちゃん、俺にはないの?」
「あ、伊織先輩の分はこちらです」
白はもう一つ手にしていた袋の中から、ごそごそと何かを取り出した。
薄いピンク色の包装紙でラッピングされたそれを差し出すと、伊織は嬉々として受け取る。
「昨日、瑛里華先輩たちと作ったんです。あ、味は自信ないんですけど」
「手作り…だと?」
「そこには紅瀬ちゃんはいなかったんだよね?」
呟いた征一郎を押し退けて、伊織が白を問い詰めるように聞いた。
白も征一郎には気付かず、伊織の質問にしゅんとして答える。
「はい…紅瀬先輩も誘ったのですが興味がないと言われてしまって……」
「それは助かる。義理だと分かっていても白ちゃんに一番にもらえるなんて俺は幸せ者だよ。 ねえ、征?」
振り向いてウインクをする伊織にハッと思い出した。
「そうか…今日は」

バレンタインデイなのか、とやっと気付いて伊織を見ると、シっと黙るように合図をされる。
不思議そうにこちらを伺っていた白に気付いて、征一郎は微笑んで礼を告げる。
「ありがとう、白」
「いえ、わたしこそ兄さまには普段の感謝の気持ちを伝えたくて……」
「そうか」
ほんのりと頬を染めた白が、いつもより大人びて見えた。
嬉しさと寂しさがない交ぜになって、胸の辺りがじわりと熱くなる。
手にしたさゝきの袋がずしりと重さを増した。
「ところで…白ちゃんの本命は誰なのかな?」
「えっ!?そ、そそそんな人は……!」
突然大声で尋ねた伊織に、白が素っ頓狂な声を上げる。
「その包みだけ、なんだか他より大きくないかい?」
伊織はにやにやと笑いながらひょいと白が持っている紙袋を覗き込む。
ひらりと身をかわした白は真っ赤な顔もそのままで走り出した。
「お先に失礼します!」
「気をつけろ、白。転ぶなよ」
「はい、兄さま!」
手を振った笑顔が眩しくて、思わず征一郎もやれやれと手を振った。



「伊織、白をからかうな」
「征が気になるかと思ってね」
歩きながら悪びれずにしれっと言う伊織に本日最初のため息を吐いた。
「……白は」
どんな可能性でも、白の未来には残してやりたいと思う。
白がどんな人生を選んだとしても征一郎に止める権利などない。
伴侶になる人間を見つけてきた時だけは、相手を見極めようとは思っているけれど。
今は、まだ。
「白の学院生活を楽しめばいい」
「ずいぶんと心が広くなったものだ」
ふうんとつまらなそうにする伊織を、フンと鼻で笑う。
そういえば。
「おまえは俺からなにか貰いたかったのか」
「そうさ、でも期待はしていないと言っただろ」
「酔狂なことだな」
「我ながらそう思うよ」
いつものように馬鹿馬鹿しい軽口を叩きながら、学院へと向かう。
伊織と過ごすこの生活も一旦は終わりを迎えようとしている。
またいつか、この場所へ戻ることはあるのだろうか。

「征」
「なんだ?」
伊織がすっと征一郎の隣に並び、何かを征一郎の手に握らせる。
じゃらと音を立てて開いた手の中には、伊織が以前愛用していたナビタイマーが光っていた。
「欲しがっていただろう?」
小さな頃から征一郎はそのオールドタイプの時計が好きだった。
伊織が身につけているのをじっと見つめたりはしたが無論、強請ったことなど一度もない。
「いいのか」
「ああ、もちろん」
「そういえばしばらく見かけなかったな」
「オーバーホールに出していたんだ、船便だから時間がかかってね」
「……おまえは、本当に」
「惚れ直したかい」
気障な男め、と心の中で悪態を吐いた。
それをも見透かしたようにからからと笑って、伊織は先を歩き出す。
追うように後に続いて、ポケットにそれをそっとしまい込んだ。
鈍く光る銀色のその時計は、今ではアンティークとしての価値も高いだろう。
ずっと昔、伊織が何かの記念に買ったものだと、教えられた。
それからずっと止まることのない伊織の時間を守ってきた。
どれほど時を刻んでも輝きを失わない性能は、一流の証だ。
永遠に時を刻む自分たちには似合いなのかもしれない。

「伊織」
「ん?」
「大切に使わせてもらう」
「そうしてくれ」
「……ホワイトデイも期待するなよ」
「ああ、それこそ何百年だって待つさ」



伊織はそう言って柔らかく微笑んだ。
ざあっと暖かい風が吹いて、伊織の金髪がまた朝日の中で輝く。
春へ向かう季節、永遠の中で、一瞬でも惜しい時間を過ごしていく。
そう誓う征一郎の隣には、いつでも伊織がいるだろう。
そう、自然に思えた。





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