静かの海




海岸線に沿っていつもの道を抜け、家路を急ぐ。
頭の隅からじわりと広がってくるのも、いつもの感覚。
強制睡眠にも慣れたもので、今では少しくらいならコントロールも出来なくはない。

海から吹き付ける冷たい風にふと足を止めた。
夏には島外からの観光客で賑わう浜も、この季節では人の姿が見えない。
サーフィンなどが出来るほど風の入らない海岸で見かけるのは散歩客くらいだった。
いつもは足早に通り過ぎる海岸に、その日征一郎はなんとなく足を向けた。

砂浜に立ち尽くし、暮れかける水平線を見つめる。
そうしている間にも眠気はじわじわと征一郎の脳内を侵食するかのように広がっていく。
正直言ってそれは決して気分のいいものではない。
通常身体や頭を働かせた疲労で襲ってくる眠気とはまったく違う。
現在この感覚を共有できるのは征一郎の知るところ紅瀬桐葉一人だ。
詳しく話したことはないが、一度お互いの感覚を話してみるのもおもしろいかと考える。
まったく非生産的で、解決策などどこにもありはしないのは分かっていた。
以前は伊織の眷属であることを隠していたのもあったが、それが知られた今でさえ
強制睡眠に陥る姿は誰にも見られたくないと思う。
無防備極まりないであろう自分を想像するだけで空恐ろしくなる。
紅瀬がふらりと授業を抜け出していた気持ちも分からなくはない。
彼女とて単にペシミストという訳ではないのだ。
けれど征一郎は周りの目に対して、もう少し上手く立ち回ろうとしてきた。
ほんの少し、それまでの生活を変えればよかった。
それが結果、自分の肩の荷を増やしたであろうことは感じている。
もう少しだけ、弓道を続けてみたかったというのも本音だ。

ぼんやりしながら、今日は身体の様子がいつもと少し違うことに気付く。
いつもなら兆候の後、がくんと急激に襲ってくる眠気がなかなか訪れない。
気を張ってはいるが、もう歩き出す気力までは残っていない。
こんなところで倒れてしまっては、騒ぎになるかもしれない。
不安のせいか、これも強制睡眠の弊害なのか、どっと心拍数が上がる。
胸を押さえて前屈みになりながらも、倒れまいという意思だけは強い。
そもそもどうして、この浜に寄ろうと考えたのだろう。
冷たい海風に体力が奪われていく。
さてどうしようかと他人事のように思いを巡らせていると、何かが頬を掠めた。
次の瞬間、ぐいと征一郎の身体が脇から力強く支えられる。

「征!!」
らしくなく本当に切羽詰ったように上げられた大声の主は伊織だった。
風を切って現れる、なんてどこまで英雄のような男なのか。
それなら、このまま身を任せてもいいだろうか。
ゆるゆると力が抜けて行く身体で、伊織に凭れる。
「大丈夫なのか、おまえ」
「ああ」
瞼がすとんと落ちる瞬間、見えた伊織の顔があまりにも真剣で。
征一郎はふっと口元を緩めて、力を抜いた。



波間を揺蕩う船のように心地良く揺れる世界の中で、征一郎は幼い頃の夢を見た。
誰かと手を繋いで、どこまでも続く波打ち際を散歩していた。
自分よりずっと背の高いその人を、繋いだ手の先に見上げる。
征一郎と並んで海側を歩く伊織の顔が、長く伸びた冬の夕日に照らされていた。
「征、寒くはないか」
そう問われて自分がどう答えたのは覚えていない。
伊織は微笑んで征一郎の手をコートのポケットにぎゅっと突っ込んだ。
ただ、何を話すでもなく歩いていく。
ゆらゆらと揺れる。
夕日が。
伊織の青い目が。
無理な体勢で捕まえられた手が。
記憶の隅に仕舞い込まれたなんでもない思い出が、鮮やかによみがえる。
時にはいつもの海岸だけではなく、二人で遠出することもあった。
伊織がいればどこにでも行けると思っていた。
それくらい征一郎にとって伊織という存在は絶対だったのだ。
疑いもなく、ましてや不安なんてどこにもない。
あの頃に戻りたい、そう言ったら伊織はどんな顔をするのだろう。



「ここは……」
いつものように突然目覚めると、征一郎は伊織に背負われていることに気付いた。
普段とはどこか違う視界に面食らう。
「お、起きたか」
「おい、降ろせ!」
「まあまあ、もう着く」
「伊織」
慌ててぐいと肩を押しても、馬鹿力で足を押さえられ脱け出せない。
自由にならない身体に苛立って、伊織の背中を叩くがびくともしない。
「昔はよくこうして征を背負って帰ったな」
「知らん」
「そうか?」
くすくすと笑うこの吸血鬼にはサイコメトリーのような能力もあるのではないかと時々疑う。
すぐ先に東儀の家の門構えが見えてくる。
ここまで来たらどうでもいいか、と征一郎は仮病を患うことにして伊織の背中に頬を預けた。
迎える使用人たちは驚くだろうが、征一郎は結局いつも最後には伊織を止めることが出来ない。



伊織はどんな顔をして、ここまで歩いてきたのだろう。
そうではない、となんとなく言いたくなった。
後悔ではないし、諦めでもない。
征一郎は道が閉ざされたとは思っていない。
ただ、あの頃の自分に少し聞いてみたかっただけだ。
おまえは一体この先どうしたいのか。
そして改めて己の信じた道をゆけ、と伝えたい。
ゆらゆらと揺れる背中のぬくもりはあの頃となにも変わっていないのだから。




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