その答えを知っているなら




嵐のような強い雨風に煽られながらゆるい坂を上がる。
傘を差していても、征一郎の制服の肩はすでにびっしょりと濡れてしまっていた。
冷たい、とあまり感じない自分にももう慣れた。
こんな雨の中をどうしてわざわざ戻って来てしまったのだろう。
征一郎は監督生棟の前で一度だけ噴水の向こうを振り返った。
通い慣れた道が、雨に霞む。
眼鏡の奥で目を凝らしても伊織の姿はもう見えなかった。



いつもより重く感じる監督生室のドアを押すと、テーブルに着いた瑛里華と窓際に立つ支倉が居た。
会話はなく静まり返った部屋の中には風で窓が軋む音がガタガタと響いていた。
あ、と支倉がこちらへ顔を向ける。
征一郎を認め、安堵と失意の入り混じった視線を放つ。
それには征一郎も戸惑ってしまい、二人に言葉をかけることもなく部屋へ入った。
「…あ、東儀先輩、帰ったんじゃなかったですか」
「処理し忘れた仕事があってな」
「そう、ですか」
気遣わしげに聞いた支倉は、目を伏せて笑った。
先程とまるきり同じことを聞かれ同じ返事を返し、征一郎はほんの少し苛立ちながら席に着く。
スリープ画面になっていたPCを操作し、目的のファイルを開いた。

「征一郎さん、肩が濡れてるじゃない」
「…構うな」
心配したのだろう瑛里華を征一郎は冷たく突き放した。
瑛里華は唇を噛んで、無言のまま給湯室へ入って行く。
窓際からはじっと支倉の非難めいた視線を感じた。
瑛里華はすぐにタオルを手に戻ってくると、征一郎の肩にそれをかける。
「風邪、引くわ」
「放っておけ」
再び思わず荒くなった口調に、肩に添えられた瑛里華の手がびくりと跳ねるのを見た。
「東儀先輩」
さすがに咎めるような支倉の言葉に、やっとのことで我に返りタオルを掴む。
制服の雫を拭いながら、瑛里華を見上げて詫びた。
「いや、すまない」
「ううん、わたしこそごめんなさい」
力なく頭を振った瑛里華のゆれる金色の髪をじっと見つめた。

「此処に来る途中で伊織に会った」
「そう」
「話も聞いた」
「そう、征一郎さんにもいろいろ迷惑かけるかもしれないけど」
「あいつが仕事をしないのは今に始まった話じゃないだろう」
「それも、そうね」
瑛里華はまだ潤んだ目に薄く笑みを浮かべて細い肩を竦めた。

こんなに華奢な頼りない身体で、この妹は何を背負うのか。
正論だけを振り翳し、決して自分を犠牲にしようとはしていない。
そんな自分に腹が立って仕方ない。
穏やかな支倉からも無言の苛立ちが伝わって来る。
今の監督生室はきっと誰にとっても居心地のいい場所ではないだろう。
征一郎はキーを打つ速度を速め、できるだけ雨風の音も耳に入らないようにした。

「征一郎さん」
やっと目の前の作業に没頭し始めた頃、瑛里華が声を掛けて来る。
「わたしたち、もう帰るわ」
「そうか、気を付けて帰れ」
「ええ」
「東儀先輩、戸締りお願いしてもいいですか」
瑛里華を支えるように、支倉が背後に立っていた。
それを見てほんの少し、救いを見つけたような気分になった。
「ああ、分かった」
「それじゃ」
声を揃えて、二人が部屋を出て行く。
ばたんと重く閉ざされたドアの音が、やたらと耳障りに聞こえた。



ひとり残された征一郎は手を止めて溜息を吐く。
傘を差し出す甲斐性もない自分が、どうしてあの時。
うちに来ればいいなどと伊織に軽々しく言ったのか、自分でも不思議だった。
有り得ない仮定の申し出に、征一郎は多分本気で答えていたのだ。
昔は。
あの頃は。

伊織は兄のような存在だった。
父や母も伊織をまるで家族の一員のように招き入れていた。
思い出すのは夏に萌える庭の緑、眩しい伊織の金の髪、肩越しに見た青い空。
外国の血を引いたような伊織の鮮やかな印象は、記憶の中の風景にくっきりと刻まれている。
それでいて東儀の家にも自然と馴染んでいたのだ。
伊織という存在のピース。
いつからか最後の1コマが合わなくて、握り締めている。
戻れないと知っているなら、せめてやり直せないかと。
縋るように征一郎が出した提案を、伊織は笑って突き返して来た。

征一郎は問うた。
伊織が何と答えるのか、分かっているのに。
それでも一縷の望みをかけていたのかもしれない。
伊織は、伽耶を憎むこと、憎んでいくことで己を保っている。
そんなものが存在意義だというなら、それこそを笑ってやりたい。
けれど征一郎に双方を丸く納めることなど、為す術などなかった。
ハ、と乾いた笑いが零れる。
伊織の答えは征一郎に『分かり合わない』という最後通牒を突きつけたようなものだ。



征一郎は立ち上がり、窓の外を見遣る。
嵐はやまない。
風の勢いはますます酷くなる一方で、このままでは帰れなくなりそうだと思った。
それならそれでも構うまい、と諦めのような気持ちが胸を冷やす。
あの兄妹はこうして、お互い課せられた運命を抱え込んで行く。
最善の方法は、他に抜け道は、なかったのだろうか。
果たしてあの男、支倉孝平はこの暗く凍えた道を照らす光となり得るのか。
すべてが、すべての想いが今は嵐の中に飲み込まれてゆくようだった。

「…あの、馬鹿め」
じりと噛んだ唇にかすかに鉄の匂いが混じる。
征一郎の覚悟も知らず、伊織の覚悟も知らず。
雨は弱まることも知らず、監督生室の窓ガラスを叩き続けていた。




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